一年に一度、ほんの二ヶ月だけ。 室町の世から泉州の土に守られてきた一粒の種が、 また、めぐる季節とともに目を覚ます。
世界には、年に一度しか口にできない味わいがあります。 それは単なる季節の食材ではなく、 その土地の自然と人の営みが一つに結ばれた、文化そのものです。
解禁とは、ただ売り出すことではありません。 その土地の風土と歴史が、再び今年も巡ってきたという祝祭です。
貝塚澤なすは、室町時代の文献にすでにその名が現れる、日本最古の水茄子です。 現在確認できる最古の記録は一六〇六年(慶長十一年)。 室町から数えれば、その血脈は七百年を超えて受け継がれています。
貝塚澤なすは、ただの古い茄子ではありません。七百年にわたり泉州の土と水と気候に適応し続けた、この土地でしか育ちえない遺伝の結晶です。種を失うことは、その土地の記憶を失うことに等しい。土壌微生物との関係も、地域の治水技術も、漬けものの文化も、すべて一粒の種の中に編み込まれています。
野菜を育てて売る。それが農家の仕事だと、長く考えられてきました。けれど大量消費の時代を経て、私たちは大切な多くを失いました。作ることと同じ、あるいはそれ以上に、種をつないでいくことが農家の仕事であると、貝塚澤なすは教えてくれます。毎年しっかりと種を採り、次の世代に渡す。それは、生産することと同じ重さの責任です。
フランスのワインを愛し、イタリアの料理に魅了されることは素晴らしいことです。けれど、自分の足元にある日本の風土と、そこに根づいた思想を知らずして、本当に世界の文化を受け入れることはできないと私たちは考えます。日本の種、日本の水、日本の畑には、七百年もの長きにわたって積み重ねられた知恵と倫理が眠っています。まずそこに帰る。そこから初めて、世界と対等に交わることができます。
私たちが今この茄子を食べられるのは、室町の昔から、誰かが種を採り続けてくれたからです。だから次は、私たちの番です。百年後の泉州の子どもたちが、当たり前のように貝塚澤なすを食べていられるように。それが、現代に生きる農家の、ささやかで、しかし確かな使命だと信じています。
「水なす」と呼ばれる所以は、その瑞々しさにあります。 けれどその水は、ただ天から降ってきたものではありません。 幾世代もの人々が、信仰し、技を尽くし、互いに分かち合いながら守り抜いてきた水です。
泉州の地には、古くから水神を祀る祠や水分(みくまり)の社が点在しています。 旱魃(かんばつ)の年には雨乞いの神事が営まれ、豊かな実りの年には感謝の祭りが奉じられてきました。 水は単なる資源ではなく、恵みであり、畏れの対象。その敬虔な眼差しの上に、泉州の農業文化は築かれています。
雨の少ない泉州では、古来より無数のため池が築かれてきました。 山から畑へ、ため池から水路へ、水路から田畑へ ―― 高低差と地形を読み、土を盛り、樋(ひ)を設(しつら)える。 それは、何百年もの観察と試行錯誤の末に磨き上げられた、土地に根ざした水のシステム。今も泉州の風景を形づくる、生きた農業遺産です。
泉州の各地域には、今も水利組合が生きています。 水路の溝掘り、池床の掃除、境界の立ち合い、水入れの段取り、支配割り。 誰かが独占すれば、誰かが渇く。だからこそ、順番を決め、労力を分かち合い、決まりを共に守る。日本の村が連綿と受け継いできた互助の精神が、水の管理という具体的な仕事の中に、今も息づいています。
一度市場から消えた品種を取り戻すことは、容易ではありません。 水なすの本来の味を求めて、北野農園は十年以上の時間をかけました。
就農した年から、北野農園代表は泉州水なすの「本来の姿」への問いを抱き続けてきました。今市場に並ぶ水なすは、本当に昔から食べられてきたものなのか。その問いが、長い旅の出発点でした。
水なす研究の第一人者・森下氏の紹介により、新潟県長岡市の土田氏と出会う。八年の歳月を経て、ついに貝塚澤なすの種に再会することができました。
同じく失われかけた水なす品種「馬場なす」のフォーラムを契機に、生産者の畠氏、難波氏とともに、なにわ伝統野菜への申請を進める。一人ではなく、地域として種を守る決意を共有しました。
非常に厳格な審査を経て、貝塚澤なすは正式に大阪府の「なにわの伝統野菜」として認証されました。失われかけた品種が、公式に未来へ受け継がれる存在となった瞬間です。
毎年、丁寧に種を採取し、次の年の畑へ受け渡す。一年に一度、五月から七月の限られた季節だけ、貝塚澤なすは私たちの食卓にやってきます。生産量はわずか。しかし、確かに未来へ続いています。
貝塚澤なすと泉州水なすは、同じ泉州の土から生まれた、兄弟のような品種です。 それぞれの物語が、別のかたちで紡がれています。
私たちはこの地で、
生産させてもらいながら、
先祖からの宝物を継承し、
子孫につなぐ。
文化継承と、生きていること。
それは、同じこと。
遺伝資源を大切にする ――
その思いだけで、
私たちは、ここに立っています。
貝塚澤なすは、ただの伝統野菜ではありません。 日本の土地が七百年かけて育てた、遺伝の記憶そのものです。 一粒の種を、生産することと同じ重さで未来へ手渡していく。 それは、日本人として、この国の風土に生きる者として、 生産することと並ぶ、もう一つの大切な役目だと考えています。 どうぞ、季節とともに、味わってください。
貝塚澤なす、ふたたび
一年に一度、ほんの二ヶ月だけ。
室町の世から泉州の土に守られてきた一粒の種が、
また、めぐる季節とともに目を覚ます。
世 界 の 解 禁 文 化
「待つ」という贅沢
世界には、年に一度しか口にできない味わいがあります。
それは単なる季節の食材ではなく、
その土地の自然と人の営みが一つに結ばれた、文化そのものです。
解禁とは、ただ売り出すことではありません。
その土地の風土と歴史が、再び今年も巡ってきたという祝祭です。
歴 史
七百年を生きてきた、一粒の種
貝塚澤なすは、室町時代の文献にすでにその名が現れる、日本最古の水茄子です。
現在確認できる最古の記録は一六〇六年(慶長十一年)。
室町から数えれば、その血脈は七百年を超えて受け継がれています。
室 町 期
14〜16世紀
京都の天台宗の僧・玄恵(げんえ)によって書かれたとされる『庭訓往来(ていきんおうらい)』。寺子屋の教科書として全国で読まれたこの書に、すでに茄子の記述が現れる。ここが、貝塚澤なす七百年の物語の起点。子どもたちは手習いとして、この野菜の名を筆で写していました。
慶 長 期
1606年
貝塚澤なすの名が文献に明確に記される。これが現在確認できる最古の記録。当時すでに、大阪貝塚の地で広く栽培されていたことを示しています。
寛 永 期
1628年
『庭訓往来』寛永五年版において「澤茄子」と書いて「ミヅナスビ」と振り仮名が振られる。澤の地で育つ瑞々しい茄子、という呼び名が定着していたことがわかります。
寛 永 五 年 庭 訓 往 来 ・ 北 野 農 園 蔵
大 正 期
1920年
貝塚市の名家に残された手紙に「水なすび」の文字。庶民の手紙にまで自然と書かれるほど、暮らしに溶け込んだ存在でした。
昭 和 中 期
1950s〜
大量消費の時代。流通に向く新品種「泉州絹皮水茄子」が普及するにつれ、皮が薄く繊細な貝塚澤なすは姿を消していく。七百年続いた品種が、わずか数十年で人々の食卓から消えました。
令 和 期
2023年
十年以上に及ぶ復活への取り組みを経て、貝塚澤なすは正式に大阪府「なにわの伝統野菜」として認証される。一度途絶えかけた種が、ふたたび現代の畑に根を張りました。
室町の世から、誰かが種を採り続けてくれた。
だから私たちは、今これを食べることができる。
左 ・ 泉 州 水 な す 右 ・ 貝 塚 澤 な す
私 た ち の 想 い
日本の遺伝資源を、未来へつなぐ
壱
種は、土地の記憶である
貝塚澤なすは、ただの古い茄子ではありません。七百年にわたり泉州の土と水と気候に適応し続けた、この土地でしか育ちえない遺伝の結晶です。種を失うことは、その土地の記憶を失うことに等しい。土壌微生物との関係も、地域の治水技術も、漬けものの文化も、すべて一粒の種の中に編み込まれています。
弐
作ることと、つなぐことは同じ重さ
野菜を育てて売る。それが農家の仕事だと、長く考えられてきました。けれど大量消費の時代を経て、私たちは大切な多くを失いました。作ることと同じ、あるいはそれ以上に、種をつないでいくことが農家の仕事であると、貝塚澤なすは教えてくれます。毎年しっかりと種を採り、次の世代に渡す。それは、生産することと同じ重さの責任です。
参
回帰してこそ、世界とつながれる
フランスのワインを愛し、イタリアの料理に魅了されることは素晴らしいことです。けれど、自分の足元にある日本の風土と、そこに根づいた思想を知らずして、本当に世界の文化を受け入れることはできないと私たちは考えます。日本の種、日本の水、日本の畑には、七百年もの長きにわたって積み重ねられた知恵と倫理が眠っています。まずそこに帰る。そこから初めて、世界と対等に交わることができます。
肆
百年後の子どもたちへ
私たちが今この茄子を食べられるのは、室町の昔から、誰かが種を採り続けてくれたからです。だから次は、私たちの番です。百年後の泉州の子どもたちが、当たり前のように貝塚澤なすを食べていられるように。それが、現代に生きる農家の、ささやかで、しかし確かな使命だと信じています。
原 種 の 名 残 ・ お し り の 花 落 ち
日本の種を守ることは、日本の土を守ること。
日本の土を守ることは、日本の水を守ること。
日本の水を守ることは、日本の暮らしを守ることである。
― 北野農園
泉 州 の 水 文 化
水を、守り、分かち合う
「水なす」と呼ばれる所以は、その瑞々しさにあります。
けれどその水は、ただ天から降ってきたものではありません。
幾世代もの人々が、信仰し、技を尽くし、互いに分かち合いながら守り抜いてきた水です。
水 へ の 信 仰
泉州の地には、古くから水神を祀る祠や水分(みくまり)の社が点在しています。
旱魃(かんばつ)の年には雨乞いの神事が営まれ、豊かな実りの年には感謝の祭りが奉じられてきました。
水は単なる資源ではなく、恵みであり、畏れの対象。その敬虔な眼差しの上に、泉州の農業文化は築かれています。
た め 池 の 治 水
雨の少ない泉州では、古来より無数のため池が築かれてきました。
山から畑へ、ため池から水路へ、水路から田畑へ ―― 高低差と地形を読み、土を盛り、樋(ひ)を設(しつら)える。
それは、何百年もの観察と試行錯誤の末に磨き上げられた、土地に根ざした水のシステム。今も泉州の風景を形づくる、生きた農業遺産です。
水 利 組 合 の 互 助
泉州の各地域には、今も水利組合が生きています。
水路の溝掘り、池床の掃除、境界の立ち合い、水入れの段取り、支配割り。
誰かが独占すれば、誰かが渇く。だからこそ、順番を決め、労力を分かち合い、決まりを共に守る。日本の村が連綿と受け継いできた互助の精神が、水の管理という具体的な仕事の中に、今も息づいています。
水を守ることは、土地を守ること。
土地を守ることは、共同体を守ること。
その水で育まれた一粒の種が、貝塚澤なすです。
泉 州 ・ 貝 塚 澤 な す の 畑
復 活 へ の 道 の り
十年がかりの、種さがし
一度市場から消えた品種を取り戻すことは、容易ではありません。
水なすの本来の味を求めて、北野農園は十年以上の時間をかけました。
2008
就 農
泉州水なすの原種を求めて
就農した年から、北野農園代表は泉州水なすの「本来の姿」への問いを抱き続けてきました。今市場に並ぶ水なすは、本当に昔から食べられてきたものなのか。その問いが、長い旅の出発点でした。
2016
出 会 い
新潟・長岡の地に眠っていた種
水なす研究の第一人者・森下氏の紹介により、新潟県長岡市の土田氏と出会う。八年の歳月を経て、ついに貝塚澤なすの種に再会することができました。
2022
志 を 共 に
幻の馬場なすフォーラム
同じく失われかけた水なす品種「馬場なす」のフォーラムを契機に、生産者の畠氏、難波氏とともに、なにわ伝統野菜への申請を進める。一人ではなく、地域として種を守る決意を共有しました。
2023
認 証
大阪府なにわの伝統野菜
非常に厳格な審査を経て、貝塚澤なすは正式に大阪府の「なにわの伝統野菜」として認証されました。失われかけた品種が、公式に未来へ受け継がれる存在となった瞬間です。
Now
毎 年
種を採り、つなぐ
毎年、丁寧に種を採取し、次の年の畑へ受け渡す。一年に一度、五月から七月の限られた季節だけ、貝塚澤なすは私たちの食卓にやってきます。生産量はわずか。しかし、確かに未来へ続いています。
い ま 、 こ こ に 在 る 貝 塚 澤 な す
さ ら に 深 く 知 る
種をめぐる、ふたつの物語
貝塚澤なすと泉州水なすは、同じ泉州の土から生まれた、兄弟のような品種です。
それぞれの物語が、別のかたちで紡がれています。
sawanasu.com
貝塚澤なす公式
貝塚澤なすという品種そのものの記録。
― 訪 れ る ―
senshu-mizunasu.com
北野農園の取り組み
農園としての日々と、種への向き合い方。
― 訪 れ る ―
私たちはこの地で、
生産させてもらいながら、
先祖からの宝物を継承し、
子孫につなぐ。
文化継承と、生きていること。
それは、同じこと。
遺伝資源を大切にする ――
その思いだけで、
私たちは、ここに立っています。
貝塚澤なすは、ただの伝統野菜ではありません。
日本の土地が七百年かけて育てた、遺伝の記憶そのものです。
一粒の種を、生産することと同じ重さで未来へ手渡していく。
それは、日本人として、この国の風土に生きる者として、
生産することと並ぶ、もう一つの大切な役目だと考えています。
どうぞ、季節とともに、味わってください。